推薦コメント 

独演『椿の海の記』に寄せて

失ったものの大きさは、失う前の豊かさを知ることでより切実になる・・・。

井上弘久さんの、独演『椿の海の記』の連作を観ながら、私が毎回思うことです。

独り舞台にすっと立つのは井上さんの体一つ。

その声が、身振りが、表情が、石牟礼道子の言葉を空間に解き放ち始めると、

小さな舞台に豊穣な自然と濃密な人情が織りなす水俣・栄町の世界が立ち上がっていきます。

石牟礼道子の言葉、井上弘久の身体、吉田水子の音・・・

それぞれの表現が​交錯しながら織り上げられる豊かな世界を、より多くの方々に体感してもらいたいと思います。

そして、巧みな表現を楽しんだ先に、暴力的に失われたものの「不在」の意味を、それが今も過去になっているわけではない現実を、

少しでも考える人が増えていけばと願っています。 

古川柳子 *明治学院大学文学部芸術学科教授

井上弘久さんの舞台は、なんというか、体験型です。

普通、観劇というと、受動的な行為という印象をお持ちの方が多いと思いますが、

井上さんが身を持って作品世界に分け行っていくのを観ているうちに、客席にいながら、彼と共に、

能動的にその世界を体験する、そうさせないではおかない、彼の表現には、そういう力があります。

「椿の海の記」では、彼は嬉々として幼い道子さんになったり、その家族になったり、あるいは動物になったり、虫になったりします。

それはめくるめくような時間です。

今、コロナのために、ずっと急かされてきた生活が少し変わって、身の回りの小さなこと、風や日射しや木々から、

実はたくさん受け取っているものがあることに気づいて、

ああ、石牟礼さんは、こういうことを、もっともっと細やかに、見つめておられたのだな、と思うようになりました。

突拍子もないことと思われるかもしれませんが、「椿の海の記」を観て、井上さんと一緒に、幼い道子さんのまなざしになって、

世界に目を瞠ってみることから、もしかしたら、コロナに対する態度も見出すことが出来るかもしれない。そんな気さえするのです。

武内紀子 *劇作家

迫りくる「本を演じる」姿                               

 

井上さんの一人芝居、『椿の海の記』には、いくつもの感動が詰まっているが、私が感じた3つのことを述べたい。

第一に、「本を演じる」試みである、ということである。演劇は、「本」=「台本」によって演じられるが、

台本=戯曲を書く劇作家、戯曲家は役者によって演じられて、初めて本が生き生きと活動し始める。

しかし、石牟礼道子さんの『椿の海の記』(1976年)は、それ自体が完成された作品であり、

「読むもの」であって「演じる」ものではなかった。その作品を井上さんは、毎回、1章ずつ、演じていくのである。

石牟礼さんによって書かれたすべての文章が「せりふ」となり、井上さんは、「みっちん」にも、「おもかさま」にも、

父の亀太郎にも、母の「春乃」にもなるし、女郎屋「末広」の「ぽんた」にも役としてなりきっている。

『椿の海の記』は見事に芝居となっていくのである。

第二に感動したのは、声と体の一体となった自然な動きである。

一切の装置や衣装なしで素の舞台の上で自然な動きから、「椿の海の記」に引き入れる。

そのほかにあるのは、吉田水子さんのベースと効果音くらいである。

この単純な構成がかえって、石牟礼道子という作家の個性を呼び覚ましているような気がする。

ほとんどそれだけで自然に昭和初期の水俣の町や末広が浮かんでくるのである。

 

第三に感動したのは、「近代」を相対化する井上さんの「一人芝居」の迫力である。

石牟礼道子は、日本の近現代作家の中でも、最も「反近代」色の強い作家である。

水俣病を描いたからだけではない、短歌にも詩にも、新作能にも表現されている。

「近代」は、分業の世界である。演劇でも、映画でも、テレビドラマでもなかなか一人だけで作り上げることはできない。

それを井上さんの一人芝居は、できるだけ一人でやろうとする。これは、もう「反近代」と言っても良い。

 

今後、井上さんはこの「椿の海の記」で全国行脚をしたいと言っている。コロナ禍にもめげずである。

ぜひ、応援したいと本心から思う。      

有末 賢 *亜細亜大学教授・社会学

私の中に、井上弘久の演劇と石牟礼道子の世界が同時に押し寄せて来て、今もじわじわと侵食している。

彼はステージの上で身をくねらせてもだえていた。もだえながら、作中の多彩な登場人物を演じていた。そのもだえ方が面白かった。

「もだえ神」の精神とは、なにもできないけれど、せめて一緒にもだえて、哀しんで、力になりたいという強い気持ちのこと。

であると、田中優子の「石牟礼道子 もだえ神の精神 苦海・浄土・日本」という著書にある。

なるほど・・・井上弘久の演技もそうである。「もだえの演劇」である。

石牟礼道子は憑依の文学者であるとも思うが、井上の演技を観て、その彼女の言葉が演劇になるのは必然であると感じる。

彼の演技に、改めて、共感する力の豊かさを感じ、そこにこそ人類の希望があるように思う。もっともっともだえましょう!

​長村順子 *NPO法人鴨川現代バレエ団代表