田中優子
Tanaka Yuko
法政大学名誉教授
江戸文学・江戸文化研究者で、エッセイスト。
法政大学第19代総長。現在は同大学名誉教授。
2020年に「苦海・浄土・日本ー石牟礼道子 もだえ神の精神ー」を刊行。
女性ならではの石牟礼道子論は説得力に富み、
危機的状況を生き抜くための希望を石牟礼道子の著から導きだす。
井上弘久 独演『椿の海の記』に寄せて
-現代の浄瑠璃-
私は 18 歳の時、耳から入ってきた石牟礼道子『苦海浄土』の言葉に心をつかまれた。
「これも文学なのか」という驚きとともに、文学観が変わってしまった。
その理由のひとつは、それが声として耳から入ってきたからだ。
方言のもつ圧倒的な力、自然界と交わる生きる言葉の力を感じ取った。
そもそも日本の文学は歌から始まったのである。
石牟礼文学はその古代以来の文学のありように、深く根付いている。
しかしその後、私は石牟礼道子を「読み」続けた。
つまり活字で、文字で、黙したまま、読み続けたのである。
せいぜいそれを超えようとしたのは、文学の授業において教師として、学生に向かって自分で朗読した時だった。
しかしその声が学生たちの心をつかんだような気がしない。
井上弘久の『椿の海の記』を見て聞いた時、
「ああ、あのとき私をつかんだのはこれだったのだ」と腑に落ちた。
自分がやったのは、活字を読みながらの単なる「朗読」だった。
しかし井上弘久の独演は現代の浄瑠璃ともいうべきものなのである。
浄瑠璃は朗読ではない。
登場人物に乗り移り、生きた言葉として語る。
浄瑠璃語りには人形と三味線がつく。
人間ではなく人形つまり「かたしろ」なので、登場人物に似ている必要はない。
語りを聞いた者たちが、言葉によって出現したその存在を人形に「見る」のである。
三味線はメロディーではなく、登場人物のいる空間を表現する多様な「音」である。
独演『椿の海の記』では、三味線とは吉田水子のコントラバスであり、人形とは井上弘久の身体そのものである。
そして、浄瑠璃は死者をもこの世に招き寄せる。
石牟礼道子の世界には山川草木、海と川、そこに住むすべての生き物が暮らしていて、
それらが言葉になってほとばしる。
人間と動植物はともに生きているから、神経殿(しんけいどん)であろうと娼婦であろうと子供であろうと区別はない。
死者と生者も共存し、山の神も川の神も「ひゅんひゅん」音をさせながら通っていく。
そこには音がある。
みっちんはその音を聞く。
みっちんは仔牛にも兎にもなる。
自然界全体を巻き込むのであるから、言葉は文字だけでは、とうてい足りない。
いや、浄瑠璃と表現したが、
和歌であるとか能であるとか浄瑠璃であるとか言った途端に「型」が思い浮かんでしまうから困る。
そのどれでもあり、どれでもない、
石牟礼道子のための新たな声の文学が、登場したのである。