原作者
石牟礼道子
詩人・作家
1927年(昭和2年)
1943年
1945年
1946年
1947年
1948年
1952年
1958年
1965年
1968年
1969年
1970年
1973年
1976年
1988年
2002年
2004年
熊本県天草に生まれる。石屋の頭領である祖父・吉田松太郎の長女・春乃と松太郎の補佐役でもあった石工の白石亀太郎の間に生を享ける。生後数か月で水俣に移り、以後、その地で育つ。(道子という名は、天草で道路を作っていたその家業に由来する)
水俣町立実務学校卒業。卒業後、代用教員(戦争による男性教員の不足を補った)の試験を受けて合格。16歳で、県下最年少の先生と言われる。子供たちと過ごすのは楽しかったが、軍国教育には到底を馴染めず、思うところを校長先生に伝えたところ、「アカと目されるので、以後、けっして口外しないこと」とたしなめられる。
先生になって三年目、代用教員を再訓練するための助教錬成所の授業で、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』と出逢う。「限りなく心の自由を感じさせる言葉で、不思議な感動に満たされた。板書された文字のひとつひとつは、宇宙の中に定位した人間の叡智というふうに感じられ、わたしはふいに元気になったのである」と、自伝『葭の渚』に記している。それこそ「文学」との初の出逢いであった。
終戦の翌年の三月のこと。勤務先の学校からの帰りの汽車で、一人の戦災孤児と出逢う。「骸骨と見まがう少女」(『葭の渚』)と自伝にはある。とうてい放っておけずに、実家に連れ帰って、50日間、その子を養う。そのことを書いた『タデ子の記』こそ処女作であり、今読んでも、鮮烈な印象を放っている。
その後、結核を患って小学校を退職。
石牟礼弘と結婚。石牟礼道子となる。
一子・道夫誕生。
この頃より、短歌をはじめる。
谷川雁の「サークル村」結成に参加。この年の11月、『椿の海の記』にも出てくる弟・一(はじめ)が鉄道事故で死す。
「熊本風土記』創刊号に『海と空のあいだに』(『苦海浄土』初稿)第一回を発表。
1月、水俣病市民会議を結成。
1月、『苦海浄土』を講談社より出版。熊日文学賞を与えられたが辞退。4月、父・亀太郎死す。
『苦海浄土』が大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれるも、辞退する。この時期は、水俣病支援運動の渦中、水俣病患者たちに寄り添うように、常に活動を共にする。
マグサイサイ賞(アジアのノーベル賞とも言われている)を受賞。
『椿の海の記』(朝日新聞社)刊行。
母・春乃死す。
新作能『不知火』を東京で初上演。
新作能『不知火』を水俣で奉納上演。
『椿の海の記』刊行以後の活躍は受賞歴も含めて多岐多数にわたるため多くを割愛するが、『苦海浄土』『椿の海の記』のほかにも、傑作と言われる作品は多く、『あやとりの記』『十六夜橋』『水はみどろの宮』『天湖』『春の城』新作能『不知火』など、愛読者でもどれが一番かと問われると、人によって見解が異なるほどの傑作ぞろいである。
その他、詩集、俳句、対談、エッセイ、どれを取っても、石牟礼道子ならではの世界が広がってゆく稀有の詩人であり作家であった。
2018年2月10日 90歳で永眠。水俣病患者たちに終生寄り添いながら、同時に、その一生を言霊たちと共に生き切ったのである。合掌。