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​この舞台について

第一章 岬

―春の花々があらかた散り敷いてしまうと、大地の深い匂いがむせてくる。海の香りとそれはせめぎあい、不知火海沿岸は朝あけの靄が立つ。朝陽が、そのような靄をこうこうと染めあげながらのぼり出すと、光の奥からやさしい海があらわれる。―

と語りだされる印象的な冒頭の言葉から、まだ4歳にもならないであろう幼女のみっちん=石牟礼道子が愛らしくも鮮やかに登場する。

「まだ人界に交わらぬ世界の方により多く私は棲んでいた」と文中にあるように、水俣の自然に包まれて育つ幼女=みっちんの姿は「もののけ姫」のようでもある。

後半では、父や母の背に負ぶさって、人の世に首を差し入れる。「数」というものへの拒否反応から、「なかでも不思議の最たるものは、自分というものである」と、この世と、そこに生きる自分という存在の不可思議に注目してゆく幼女こそは、まさに石牟礼道子その人の原点が語られている魅惑の章である。

第二章 岩どんの提灯

―どこまでもどこまでも干いてゆく不知火海の遠浅の……―と、 石牟礼道子の揺り籠だった不知火海の潮の満ち引きの様子から語りだされる第二章が描くのは、しかしながら自然ではなく、幼女の目を通した人の世の姿である。

 石工という父の仕事が、座礁した石積船の姿と重なって描写される箇所は、まるで散文詩のようで、心に躰に沁みてくる。

 そして表題にもなっている岩どんと呼ばれる爺さまとみっちんとの微笑ましい出逢いの様子は、同時に、差別という人間社会の暗部をも幼い心に刻むのだが……町の人びとから差別の眼を向けられる川向こうの通称「とんとん村」では、癩病患者の徳松どん一家をも部落の一員として遇するやさしさを持っていて、この章のラストは心に染みる。

―水俣川の川口にあるこの「とんとん村」は、ちいさな丘を四つほど抱いていて、住みついてみるとこのようにやさしかった。

 鬼火だという青い人魂さえ、人に寄り添ってここではあらわれていた。―

独演『椿の海の記』ではこの言葉につづいて、金子忍氏作曲の「夜の不知火海」がコントラバスでやさしく、やさしく奏されて、舞台に幕を下ろしてゆく。

第三章 往還道

石牟礼道子さんの生家は石屋なのですが、石碑や墓碑を刻むだけではなく、道路を作ったり、温泉場を開いたりもしていて、「道子」という名も、取り掛かっていた道路工事の完成を予祝してつけられた名なのでした。

その祖父や父が作った水俣・栄町の道路を通って、獲れたての魚を売り歩く逞しい女房たちの様子が語られ、道路の両側に様々な店が出来て、海辺の鄙びた村が町というものに変貌してゆく様は、「会社行き」と呼ばれる嘗ての村には存在しなかった会社員たちを出現させ、港に上がる船員たちも現れて、それは片田舎の辺鄙な村落に近代社会が形成される様子をも描いていて、町なみの中心には「末広」という女郎屋が出現するのである。4歳のみっちんは年若い女郎たちから可愛がられ、石屋に住み込んでいる若い石工たちから女郎の様子を聞かれたりもする。みっちんは上がり込んだ髪結いさんで、島田髷に結ってもらう年若い恥ずかしがり屋の人気女郎ぽんたの結いたての髪とキラキラ光る銀簪に溜息を漏らす。が、次に続く言葉に読者は思わず息を飲む
 

―ぽんたが殺されるのが昭和六年、わたしが四つ、兄(若い石工たちのこと―注たちが十六、七から、十九、はたちだった。-

石牟礼道子さんが終生忘れることのなかった若き女郎ぽんたの刺殺事件である。

第四章 十六女郎

 題名の「十六女郎」とは、刺殺された若き女郎=ぽんたを指す。

 章の前半では、刺殺事件はどこへ行ってしまったのかと思わせるほどに、この町に雨の降りだす様子があたかもじっさいに雨音が聞こえてくるかのようにある種官能的とも言える筆致で描かれていき、それは天草からやってくる口やかましい大叔母のユーモアを交えた描写へと移ってゆき、さらに4歳の幼女・みっちんと盲目の祖母であり、世間的には神経殿(しんけいどん)と呼ばれる狂女であったおもかさまとの何とも微笑ましいやり取りが描かれてゆく。そして……

 ―そこは昼間、紙芝居の小父さんが来て立つ「末広」の勝手口に近い角だった―

この一行を堺に、刺殺事件の顛末に向かって書き継がれる珠玉のような言葉の連なりこそは、舞台役者の私に「語れ!語ってみろ!」と囁きつづけた部分であり、講談か、はたまた活弁のような切れ味を示しつつ、浄瑠璃などの日本の伝統芸能から引き継がれた見事な語り口で、独演『椿の海の記』として全章連続上演を考え始めるきっかけとなった章でございます。

第五章 紐とき寒行

『椿の海の記』は今は亡き魂たちへの鎮魂歌だと私は思うのですが、第五章の書き出しでは、その亡き魂たちの筆頭者たる祖母のおもかさまと、町の人びとからは後ろ指を指されている末広の若き女郎たちとの道行きが描かれていて、何ともユーモラスでありながら、世間の良識に言葉の矢を放つ。そして天皇の行幸の目障りになるからと祖母に縄をかけようとする官憲に父・亀太郎は、縄をかけるその時は「ばばさまを刺し殺して、(自分は)切腹いたしやす」と告げ、「二人の介錯ば頼みます」と言い放つ。亡き魂たちの二番手こそは父・亀太郎である。そしてこの章では三番手として、若くして死んだ一つ違いの弟・一(はじめ)が登場する。

 さらに第五章の魅力といえば、中頃から語られる農家の暮らしぶりである。麦踏みから始まって、霜がおりだす冬の農作業の様子が生き生きと語られ、大根の寒漬けや(今でも水俣名物となっています)、味噌や醤油の仕込み方まで語られて……冬の早い日没に追われて丘の畑から家に帰り着くと、祖母のおもかさまは家にはおらず……粉雪のちらつく町中を4歳のみっちんはおもかさまを探し歩いて、連れ帰り……やがて夜も更け、親子4人が布団に並んで寝入るその寝入り際の行間から伝わってくる雪降る町の静かさたるや!……その静かさを、独演『椿の海の記』では舞台ならではの手法で実現できたと思っています。行間の空白から伝わる静かさが、「静かさ」そのものとして舞台から伝わってくる瞬間を、皆さまにも是非とも体験していただきたいと思っております。

第六章 うつつ草紙

第六章の前半は正月明けの七草粥の草の取りかた作りかたからはじまって、春の「よめ菜飯」や、芹飯、紫蘇飯、筍飯などなどの作り方が語られて、それにつれて料理の美味しそうな匂いが舞台中に立ち込めるようで、私は語りながら生唾をごくりと飲み込んだりもするのです。

 料理の話しは季節の旬を語るうちに梅雨の時期を迎えて、話題は家業の石屋仕事のことへと移ってゆき、河川工事をも請け負う土方作業に向かう男たちの幼児の眼に映る姿は印象的である。そして……

 ―梅雨の晴れ間もめずらしく、からりと栄町の往還が乾きあがった日に―

と転調したかのような後半は、みっちんがいつも上がり込んでいる髪結いさんの沢元さん、歳は若いが働き者で腕の立つ沢元さんの家出事件の顛末が語られる。いつもとは違うよそ行き姿の沢元さんが黒塗りの自動車から引きずり出だされて「この、親不孝ものがあ!」と父親から怒鳴られ足蹴にされて打ちすえられる姿にみっちんは目を瞠る。家出は失敗して、沢元さんはもとの髪結いさんに戻るのだが……それは大人たちの普段の振る舞いの奥に隠された思いの襞が突如目の前に現れた出来事であり、「トーキョーに出てゆかすつもりじゃったばい」という界隈の噂話から、「トーキョー」と呼ばれる外の世界があることをみっちんは知るのだった。

第七章 大廻りの塘

大廻りの塘とは、水俣川が不知火海にそそぐ川口の、海沿いの川岸に広がる波止の土手のことですが、この第七章は前半と後半で内容がはっきりと二分されていまして、2019年の連続上演の折には、前半を『葛の葉道行』、後半を『雨乞い』と題しまして、二回に分けて上演しました。ここでもそれを踏まえまして、前編・後編に分けまして紹介することにします。

第七章 大廻の塘・前編 葛の葉道行

ここで描かれるのは4歳の幼女のひとり遊びである。そのために選ばれた場所が大廻の塘で、みっちん一家が暮らす栄町から、幼女の足なら小一時間はかかったと思われる、芒の打ちなびく広い土手道である。

 大廻の塘はしかし、神様たちや妖怪たちが行き交う場所であり、時には神々が遊び合ったり喧嘩し合ったりもする場所で……そこまでゆけばみっちんは人間の子ではなくなって、「コン」と一声あげて、子ぎつねに変身する。口から出るのは、聞き覚えの浄瑠璃「葛の葉子別れ」の節回し。「変身願望」というのは、いつの時代でも人間の子どもの遊びの中心となるものだが、このみっちんの浄瑠璃を語りながらの変身遊びの様は、もう作品を読むか、舞台をご覧いただくほかは、説明のしようもない。

 芸能性と切っても切り離せない石牟礼文学の原点が綴られている章である。

第七章 大廻の塘・後編 雨乞い

水俣は地名にあるとおり川のほとりに開けた土地で、飲み水までが枯渇することはなかったのですが、しかし田畑の水が枯れきってしまっては一大事です。雨が降らず、日照りが続いて人間業では如何ともしがたい時は、山の上の方の集落からはじまって、近隣の部落の衆がそれぞれドラと呼ばれる大太鼓と鉦を打ち鳴らしながら合流しつつ下ってきて水俣の町筋に集まった村々は……

―御岳の村、石坂川の村、深川村、桜野村、葛渡村、宝川内村、無田村、岩井口村、寒川村、久木野村、仁王木村、桜野上場村、頭石村、石飛村……招川内村……湯ノ鶴村、野川村、長崎村、茂川村、大窪村、鶴村、……そのあとに町方が続く―

とあって、どれほどの男たちが加わったことか。町筋に集まったその衆たちが、それぞれの大ドラと鉦を打ち鳴らしながら、みっちん一家が暮らす栄町通りを通って、大廻の塘を目指すのである。

 雨乞い行事は古来から続いていて、嘗ては籤引きで決まった娘が竜神への捧げものとして海に供されたという。

 この話は、石牟礼道子さんの遺作となった新作能『沖の宮』でも取り上げられていて、この雨乞い行事は、それほど忘れ難い印象を、幼いみっちんの脳裏に刻み込んだのでした。

第八章 雪河原

 この章の前半の中心は、盲目の老狂女・おもかさまである。

雪降る冷たい夜の夢に出てくるおもかさまは両手の先に鋏を持った蟹の姿で、川の浅瀬を伝って、若いころ住んでいた宝川内川の上流へと、川の水にゆらゆらと揺られながら遡ってゆく。その川の上流の石切り場のある山中では、まだ目も良く見えて若かったおもかさまが、負い籠いっぱいに筍やシメジ茸や、つやつやした小豆などを背負って、山のご馳走だから浜辺の人びとに持って行ってやろうと、毎日毎日、汗水流して一軒一軒配って歩いていたという。そのおもかさまがある時、崖の登り降りの最中に足を踏みはずして、山中の淵に滑り落ちてしまったことがあるという。水音を聞きつけて淵を覗き込んだ村人の眼に、「髪の中まですっかりほどき放ったおもかさまが泳ぎまわっていた」とあり、読者の脳裏に、若かったおもかさまの白い裸身が水音を立てて浮かび上がったりもして、あまりの純粋さ故に、狂気へと向かわざるを得なかったおもかさまがみっちんに乗り移る。「ひょっとして、おもかさまが自分で、自分がおもかさまかも知れぬのだ」と。

この章の後半には、「竜の珠」と呼ばれる美しい草の実のことや、「飴んちょおっ盗り」事件、「末広に、いんばいになりにゆく」と母・春乃に告げて、晴れ着に化粧までして髪も結い上げて、栄町の通りを一人で練り歩くみっちんの「おいらん道中」のエピソードまであって、とにかく盛りだくさんの章なのだが、4~5歳の幼児の自意識の目覚めを描いて他に類を見ない本書の核心ともいえる章となっている。

第九章 出水

これはまた、生きることの不条理を描いて忘れ難い章である。

 みっちんにやさしい柿山の婆さまと呼ばれる魅力的な婆さまは、「なぜか突然、……月夜の晩にくびれ死んだ」と告げられる。

 ふだんは子煩悩で生きる哲学を語る父・亀太郎が、石屋の経営の行き詰まりに苦悩して、深酒に救いを求め、酔った挙句に弟の一とみっちんの喉元に鉄の火箸を突き付ける場面は不吉な未来を予感させて生々しい。

 そして降り続く雨が溢れて水に漬かりそうになっている麦畑に足を踏み入れたみっちんは、畝の間の窪みに落ちこんで……やがて体ごと水に流されてゆき……後年、自殺未遂を三度も繰り返すことになる石牟礼道子の、幼時のこの水に溺れかけて流されるという出来事は、自殺未遂ではなかったものの、死を願う心の芽生えのように描かれていて、その切なさゆえにも、忘れ難い章となっている。

第十章 椿

幼児の自意識の在り様がそれぞれ異なる角度から描かれる八章・九章・十一章は、それぞれが『椿の海の記』の核ともいえる章なのですが、それらに挟まれた第十章は、自意識への問いかけこそ語られないものの、5歳になったみっちんの日常の日々が軽やかに描かれて、独特の味わいを醸し出す。

 椿の枝に挟まって身動きが出来なくなってしまった弟・一の救出劇。母・春乃と叔母・はつのによる夏場の野良仕事の様子、水汲みを任されて降りて行った「井川」と呼ばれる水場の清冽なさま。その行き帰りには兎と出逢ったりもして、それこそは仕事の楽しみというものである。そして夕陽に追われるようにして丘の畑から降りてくる野良仕事からの帰り道の描写も生き生きと描かれて……

最後は水俣にペストが流行った時のことが語られるのですが……東京での連続上演があのコロナ禍だったこともあって、過去の流行り病をめぐるその記述が、なんともリアルに感じられるのでした。

第十一章 外ノ崎浦

盲目の老狂女・祖母のおもかさまとみっちんの章である。

 まずは水俣に暮らす大叔母お澄さまと、そこへ天草から時おり訪ねてくる姉の大伯母お高さまとの間に交わされるおもかさまの噂話が披露される。お澄さまの隠居所に自由に出入りして、噂話を聞くともなく聞いているのは、もちろんみっちんである。

 お澄さまはとっておきのお茶菓子なども振る舞ってくれてみっちんを可愛がってくれるのだが、ただ一つ、澄子という名の孫娘の話題になると、みっちんの心は穏やかではいられない。みっちんと同い年の澄子という孫娘は、「花のように美しい!」と誰からも言われていて……みっちんは、自分のことを「美しい!」とは誰も言ってくれないことに気づいてしまう。そんな自分と澄子を比べてみる時、みっちんの心中にも、人を呪いたくなる不穏な思いが湧いてきて……人と人の間の越えがたい裂け目のようなものに気づかされてゆく。

 そのかたわら、みっちんは町にやって来たサーカス団に夢中になる。そのきらびやかさに憧れて、母と叔母の留守に、近所の子供たちを家に引き入れ、空中ブランコの真似をして、喝采を浴びたりもする。この遊びを演出する力量は相当のもので、第八章の自身の「おいらん道中」と合わせて、後年の水俣病患者のための「怨」の字を白く染め抜いた黒旗の考案や、チッソの株主総会に患者たちが白装束の巡礼姿で参加するのも、彼女のこの演出力によるもので、石牟礼道子こそ稀代の演出家でもあったと、私は思うのです。

 そして第十一章の最後の場面。おもかさまとみっちんが連れ立って、早朝の蓮華畑に赴いて、日の出とともに開花する蓮の花に向かって合掌するさまのなんと美しいこと!この『椿の海の記』のラストの場面を前にして、もう何度経験したか知らないほどの絶望感に私は陥っていた。―こんな素晴らしい場面は、もうわざわざ演じなくても、読めば、それだけでよろしいのではないか―と……。それがやがて、蓮の花に向かって手を合わせるおもかさまとみっちんを代わる代わるこの身一つで演じてゆくことは、それこそ、幼いみっちんの中におもかさまが宿ってゆく、みっちんとおもかさまが一つ身になってゆくことの形象化であることに気づいた時、『椿の海の記』を演ってよかったと、ようやくホッと胸をなでおろすことが出来たのでした。(注:章の題名の「外ノ崎浦」とは、道子さん一家の出身地・天草のおもかさま縁の土地の名です。)

 独演『椿の海の記』全章連続上演、ご覧いただけましたら幸いでございます。

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